日本ソフトボールレジェンドの山田恵里 東京オリンピックで3度目のメダル獲得に挑戦
06/08/2020 1 記事を読む目安時間

日本ソフトボールレジェンドの山田恵里 東京オリンピックで3度目のメダル獲得に挑戦

アテネ2004銅メダル、北京2008で金メダルに続き、東京2020で三つ目のメダルに挑戦する山田恵理のインタビュー。WBSC世界女子ソフトボール選手権大会2冠の山田がオリンピックの経験や東京2020への抱負を語る。

山田恵理は長く日本代表ソフトボールメンバーを続ける選手の一人。国際大会16年の経験を持つ。山田はこれまでオリンピックメダル2個、WBSC世界女子ソフトボール選手権大会2度の優勝と日本史上もっとも華々しい経歴を持つ。現在36歳の山田は今でもセンター、日本チームキャプテンとして活躍し、東京2020での金メダル獲得に挑む。

1984年3月8日生まれの山田は、これまでオリンピックソフトボール大会で19試合(全てセンター)に出場し、アテネ2004で銅メダル、北京2008では金メダルに輝いた。山田はオリンピックでの平均打率は .379、2本塁打、10打点。2021年に出場予定の3度目のオリンピックではさらに記録は塗り替えられるだろう。

山田の初のオリンピック出場はアテネ2004。当時20歳の山田は日本チームで最年少下から二番目だったにも関わらず、9試合先発出場、打率 (.414)、安打数(12)、三塁打数 (2)、RBI (5)、残塁率 (.438)、盗塁(2)、長打率(.586)と日本チーム首位の成績を出した。

「シドニーオリンピック2000をテレビで見て、私も同じ舞台に立ちたいと思いました。その夢がアテネ2004で実現したとき、ぜひいい結果を残そうと思いました。目標は金メダルでしたから、銅メダルに終わった時は悔しかったです。」と山田は日本ソフトボール連盟を通してWBSCの質問に答えてくれた。

2004年8月22日、日本はアテネ2004最後の接戦2試合を行った。プレイオフ1戦目では中国に8対0で勝利し、2試合目ではオーストラリアに3対0で敗れて3位に終わった。この日山田は7打数3安打。この2試合について尋ねたところ、山田は詳細までは覚えていないが、さまざまな状況やそれがチームのパフォーマンスにどのような影響を及ぼしたかを振り返った。

「よく覚えていませんが、金メダル目標のプレッシャーを感じていました。大会中チームとして私たちの本当の強さを見せることはできませんでした。いつも通りに力が出せていたら結果は違っていたと思います。」

アテネ2004の1年後、IOCは2012年からソフトボールがオリンピックから除外されることを決議した。「2012年のロンドンオリンピックで引退しようと計画していたので、とてもショックでした。」

「私は2度オリンピックを経験できました。でもソフトボールがオリンピックから外れたことが原因で引退を決めた選手を多く見てきました。多くの選手にオリンピック舞台でプレーしてほしいと思っています。私の場合は、IOCの決定でソフトボールや皆様に感謝を伝えるためにフィールドに残ろうと思いました。」

山田はアテネ2004と北京2008年の両大会に出場した6選手のうちの一人。レジェンド投手の上野由岐子もその一人だ。両選手は絶頂期の中、アメリカから王座を奪い日本史上初のソフトボール金メダル獲得を目指して2008オリンピック競技大会に臨んだ。オープニングラウンド6勝1敗で終え、日本はオープニングラウンド2位でプレーオフに進み、第一準決勝でアメリカと対決。しかし4対1で敗れた日本は、同日午後、敗者復活をかけて第二準決勝でオーストラリアと戦った。この試合は延長12回の長丁場となったが、接戦の末日本が4対3で辛勝した。

「この試合を終わらせて早く上野さんを休ませてあげたかった。でもその一方で、少しでも長く試合ができて私たちは幸せでした。」

2008年8月21日、長い接戦の後、日本は2度目のオリンピック決勝に進んだ。

「その日のために何か変更したりせず、いつも通りにこなしました。」とその試合で日本の三番打者だった山田は振り返った。

この大会で0.00 ERAの左腕キャット・オスターマンがアメリカの先発投手。しかし日本は3回1対0でリード、次の回で山田は先頭でセンターに本塁打を放ちさらに2対0にリードを広げ、3対1で勝利した。

「オスターマンから安打を取るのは大変でした。日本の勝利の鍵となる本塁打を挙げることができたときは嬉いと同時に驚きました。」打率.345の左打ち打者の山田は北京では最優秀打者となった。

決勝で上野は完投し、日本は史上初のソフトボール金メダルを獲得した。「日本の金メダルが決まり、多くのファンの皆さんがとても喜んでくれたのを覚えています。」と山田は語った。

ソフトボールがロンドン2012から除外されることになり、北京2008は選手たちにとってオリンピックでプレーできる最後のチャンスとなった。しかし山田がその後も続けた長いキャリアは例外的だ。

日本は2012年と2014年と世界優勝を果たし、山田はWBSC世界女子ソフトボール選手権大会に6度出場。2018年、千葉で開催したWBSCフラッグシップ大会では日本は決勝で宿敵アメリカを相手に、延長接戦の末惜敗した。しかし、これは2020東京を目指す山田や日本チームにとって学ぶことの多い素晴らしい経験だったという。

「自国で行われる重要な大会でのあの雰囲気とプレッシャーの中で、いかにプレーすれば良いかを学びました。私たちはまたアメリカ代表チームとの戦い方も学びました。」

12年待ち続け、ついにソフトボールは東京2020で今年復帰する予定だった。しかしCOVID-19パンデミックの影響でオリンピックは1年延期。山田がオリンピックでの3度目のメダルを獲得するチャンスを掴むまで、後もう少しの辛抱が必要だ。

「オリンピックでソフトボールの競技ができるうちはそのためにしっかり準備していきます、東京2020で皆さんに感謝の気持ちを表したいです。オリンピックは中止にならず延期となったと聞いたときは嬉しかったです。どんな可能性にも対応できるよう練習を続けます。」


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