公益財団法人日本ソフトボール協会 13年越しでオリンピック金メダル連覇を成し遂げたその秘密を探る
東京2020オリンピックオフとボールで日本がアメリカを下し見事金メダルに輝いたあの日から1ヶ月。公益財団法人日本ソフトボール協会(JSA)がWBSCに連盟特集シリーズのインタビューで、世界トップランク日本の代表チーム選考の過程などについて語ってくれた。
7月27日、日本ソフトボール代表チームは国内の大きな期待に応え、北京での初のオリンピック金メダル獲得から13年後の東京オリンピックで、再び金メダルを手にした。
日本がアメリカに勝利し金メダルを勝ち取った東京2020金メダル決定戦を視聴する
WBSCは、日本ソフトボール協会(JSA)の役員兼代表チーム強化本部長で、オリンピック開催中は代表チームのチームリーダーだった矢端信介氏と日本代表チームの今回の偉業達成について話し合った。
「新型コロナウイルス禍での困難な状況ではありましたが、東京2020オリンピックに参加できたことを心から嬉しく思います。自国で金メダルを獲得するということは本当に名誉なことです」と矢端氏はWBSCに語った。
2014年にJSAの役員となるまで、矢端氏(57)は高校、大学で選手として活躍し、その後コーチとして成功。ヘッドコーチとしてU-19世界選手権で2位、U-16 2009世界選手権優勝の実績を持つ。
日本の代表選考は2015年に開始。2017年には宇津木麗華氏がヘッドコーチに就任した。
「私たちは透明性と客観性を大切にしました。選考委員会には日本女子リーグの全監督が揃っています。2015年と2016年にそれぞれ年に2回会合を開き、委員会メンバーが徹底的に話し合ってトップチーム、TAP-A 、そして TAP-Bの3チームを編成しました。TAPはTarget Age Project(2020年に中心選手となり得る選手群の発掘・育成・強化を行うプロジェクト)の略語です」
「選考を重ね、3年かけてオリンピックチーム15名に絞りました」
パンデミック拡大で2020年で一番何が大変だったかという質問には、矢端氏はまずは参加者たちの安全確保が最優先だったと言う。「感染防止が最優先でした。WBSC、JSA、そしてナショナルチームガイドラインを守り、アスリートやスタッフらに感染しないような防止対策をしっかりとするように務めました」と答えた。
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日本では女子ソフトボールはトップレベルでは89クラブ1737選手、大学レベルでも122チーム2537名の選手を誇る。
また、15歳から50歳までの女子のソフトボール人口は12448人、50歳以上のソフトボールチームも643チーム存在。登録していないチームはその数倍だと言う。
JSAに登録しているのは現在13628名のコーチ、39018名の審判員、10478名。
日本は現在男女ともに、WBSCソフトボール世界ランキング第一位を誇る。
「日本のソフトボールは変化がしなければならないことはわかっています。トップリーグレベルでも選手の数は減少してきており、それに取り組んできました。オリンピックで金メダルをとったことで、女子ソフトボールの人気がまた回復することを願っています。ソフトボールは身体のためだけでなくメンタルヘルスのためにも一生続けられるスポーツです」
矢端氏はすでにオリンピック金メダル後について考えている。「日本女子ソフトボールリーグのシーズン後半がもうすぐ開幕します。シーズン中は代表チームは活動をしませんが、11月末にまた新たな代表チームメンバーの選考を始めます」
将来の目標は何ですか。「短期目標は競争力のあるチームを2022年のワールドゲームズとアジアンゲームズに送ることです、日本はアジア6連覇を更新中です。長期目標は2028ロスアンゼルスや2032ブリスベンオリンピックに出場すること。全体的な目標はWBSC世界ランキングで首位を維持することです」
JSAは1949年、全日本軟式野球連盟から分離独立して設立され、同年に最初の女子ソフトボール国内選手権大会を開催。1951年にWBSC(当時は国際ソフトボール連盟ISF)に加盟した。
JSAは国内優勝チームを1962年にアメリカソフトボール協会(ASA)の国内選手権大会に送った。当時のJSAの岩野次郎副会長が選手団を務めた。岩野氏は1965年第一回女子ソフトボール世界選手権大会の組織運営の中心に立った。日本が初めて世界男子ソフトボール選手権大会に出場したのは1966年。